また、たわいもない日記シリーズでございます。このシリーズだと、個人的にかなり本音を綴ることができるから好きです。もちろん、普段も、自分自身の経験に基づく記事を書いてはいるのですが、経験と本音は違うというか、そんな感じですね。
今日は、私自身がしっかり者と言われることについて話していきます。今は仲のいい人たちと飲んだ後のほろ酔い状態で記事を書いています。仲のいい人たちと飲んだりするときに、周りの人は酔いが回ってきて自分の人格を失ったり、理性を持たないということができるのに、私はできません。父親の影響を受けて、そもそもお酒が強いからそうなるというのもありますし、なんか責任を感じてしまうというか、自分はああなれないなと止めてしまいます。むしろ自分一人の方が飲めるくらい、なぜか人前で飲む時は責任を背負ってしまうというか、そのような感覚があります。アダルトチルドレンだからなんですかね。父親がお酒によって暴れたりしているのを見て、私はああなってはいけないという感覚はやはり抜けませんし、一生その感覚が変わることはないと思います。父親の影響は受けなくなってきましたが、やはりお酒に飲まれてしまう危機感は変わらないですね。だからこそ、お酒を飲んで、理性を失ったり、記憶を失ったりできる人は羨ましいなと結構思います。
あと、しっかり者って、周りから褒められにくいなと思います。なぜならできるハードルが上がってしまうから。しっかり者な人って、そうなりたくてなってるわけじゃないのかなって思います。実際、私は頑張っているのに、それがデフォルトになってしまい、いつも頑張っていない人は私の少しの部分に取り組むだけでめちゃくちゃ褒められるということはよくあるなと感じています。私の好きな曲な歌詞に、「真面目はコスパが悪い」という言葉がありますが、まさにその通りだと何回も思いました。
前までは、先ほど挙げたように、しっかり者って悪いことだらけじゃんと思っていたのですが、絶対必要な存在でもあるなということも実感しつつあります。しっかりものの人がいるから、物事が円滑に進んだり、いざとなったときに頼りにできるという安心感を持つことができる。しっかり者って目立たないし、表立って褒められるポジションではないかもしれないけど、影の立役者というか、そういうかっこよさがあるのかなって気づくようになりました。
それでも、落ち込むこともありますけどね。ただ、しっかり者だからこそ、信頼を得られて仕事を任されるとか、いい影響も享受している可能性があるなと思います。
人を見ると、自分にないものを見てしまい、比較したりもしますが、人間だから比較せず生きていくことは難しいし、しょうがない。自分を変えようとせずに、良さを伸ばせるように頑張りたいです。